まえがき

全国の須崎さんは、約2800軒です。
ふとしたことから、調査をしてみました。
1.東京の奥多摩町、青梅(おうめ)市、立川市には、かなり存在します
2.私の勤務先は1万人の事業場で3人なので、概ね東京では0.03%(世帯数で0.01%)と推定していました
3.98年4月に徳島に私用で行ったついでに、調査したところ何人かいました
4.図書館で全国の調査を開始しました。
5.全国をランダム調査をして、全国で概ね3、000軒であることを確信しました。
6.広島県には、「シャチハタの印鑑が売っている」ので須崎がいると考えていました。

全国には、約2800軒(0.0063%)ですので、16,000軒に1軒程度です
(全国の世帯数は、1995年国政調査で44,107,856世帯です)
全国の約560市町村に存在します。
(全国の市町村は、3255市町村(98/8/26現在)です)


目次

第1章 全国の須崎の分布の旅

021 青森県・金木町。 33軒( %順位3位)
131 東京都・奥多摩町。45軒( %順位1位)
132 東京都・青梅市。 156軒(多数順位1位)
133 東京都・立川市。 82軒(多数順位4位)
134 東京都・町田市。 58軒(多数順位6位)
135 東京都・特別区。 139軒(多数順位2位)
231 愛知県・名古屋市。97軒(多数順位3位)
241 三重県・熊野市。 35軒( %順位7位)
242 三重県・二見町。 32軒( %順位2位)
371 香川県・坂出市。 62軒(多数順位5位)
401 福岡県・高田町。 22軒( %順位4位)
421 長崎県・佐世保市。26軒(多数順位19位)
431 熊本県・牛深市。 32軒( %順位5位)

第2章 須崎のルーツ


第1章 全国の須崎の分布の旅

021 青森県・金木町。33軒(多数順位12位、%順位3位)
金木町(かなぎまち)には、33世帯存在。町の0.9%が須崎
太宰治の生誕地で有名。元禄年間(1688-1704)に藤枝溜池の築造と新田開発をした。
嘉瀬(かせ)雲雀野(19軒)、嘉瀬端山崎(8軒)地域は、藤枝溜池の5km南です
300年前に開拓民が2-5軒入植したならば、33軒程度になります。
統計値では300年で5倍ですので、日本のどこかにルーツがありそうですね

131 東京都・奥多摩町。45軒(多数順位8位、%順位1位)
奥多摩町には、45世帯存在。1.8%存在
東京・西部の奥地で大丹波地域に須崎が多く存在。近くに御嶽山があります
大丹波37軒(江戸時代12軒)は、江戸時代の家号から考えると分家が推定できます
1600年頃(安土桃山時代)に2ー3軒存在と思われます。
現在と江戸時代の150年(1850−1995年)間の人口増加の統計値は4倍です
<ルーツの可能性有り>

132 東京都・青梅市。156軒(多数順位1位、%順位8位)
御嶽山4、沢井7、柚木4、二俣尾23軒、梅郷19軒、日向和田9、畑中21軒
多摩川に沿って78軒が存在します
特に、御岳山の須崎は、西暦1700年に5軒が存在します。御岳山は大きな平坦地がないため軒数は増加していません。 現在は、4軒存在します
御嶽山の歴史は、1000年以上あるようですが
大中臣国兼伝によれば、御嶽山の開山は西暦1221年(承久の乱:鎌倉時代)以降のようです
<推定:御嶽山に須崎のルーツがあると考えています>

133 東京都・立川市。82軒(多数順位4位、%順位13位)
立川駅の北側に、須崎が存在します。
幸町37軒、栄町15軒、砂川5軒
<旧家がかなり存在します>

134 東京都・町田市。58軒(多数順位6位、%順位17位)
大蔵町32軒、鶴川町10軒
大蔵の須崎は、相当古い時代から存在しています

135 東京都・特別区。139軒(多数順位2位、%順位54位)
特定の区部に分布するこのなく、21区(23区中の)に存在する。

231 愛知県・名古屋市。97軒(多数順位3位、%順位24位)
天白区51軒、千種区11軒。

241 三重県・熊野市。35軒(多数順位11位、%順位7位)
金山24軒と有馬9軒。 集中して戸数存在

242 三重県・二見町。32軒(多数順位15位、%順位2位)
五十鈴川の河口の今一色23軒と溝口3軒。 集中して戸数存在
<ルーツの可能は非常に高い。各種文献で「須崎」の記述あり

371 香川県・坂出市。62軒(多数順位5位、%順位9位)
京町8軒、元町10軒。 存在地域はバラバラ

401 福岡県・高田町。22軒(多数順位21位、%順位4位)
徳島12軒、江浦4軒、濃施4軒。 徳島は海辺、川の付近。

421 長崎県・佐世保市。26軒(多数順位19位、%順位21位)
黒島9軒、白岳4軒、船越2軒
旧藩時代は、800軒余の戸数で平戸藩に所属。明治19年第三海軍府が鎮守府が開設。明治35年村から市に昇格
<推定:ルーツには、ならないでしょう>
431 熊本県・牛深市。32軒(多数順位13位、%順位5位)
深海29軒、牛深1軒。 
<深海は、ルーツに成り得るのでないでしょうか>

第2章 須崎のルーツ
須崎のルーツは、中臣氏であるようです。
伊勢地方(二見町)と御嶽山が大きなルーツのようです。
御嶽山は、古い歴史と関東一円に檀家組織を持っています
<日本古代氏族辞典によれば>
中臣(なかとみ)は神祇職を担った上級氏族であり、「神と人の中を執りもつ臣」の意でこの職務に由来する。
<御嶽修験道の伝説によれば>
(大中臣国兼伝)伊勢の神官大枝氏に散位大中臣国兼という人がありました。(散位とは位だけで仕事のない役です)
中臣とは神様と人との中をとりもつと言う意味で神主の家柄を云うのです
承久の乱に後鳥羽上皇に味方をしたので、敗戦後幕府の目を逃れるため姓を浜名と改め、山に伏し野に宿りつつ国中の大小神祇、霊場を巡礼万民の安泰を祈りました。
丁度御嶽の麓にさしかかり仮眠したところ、白髪の翁姿の権現様が霊夢にでて、汝を此の山に止めようと仰せられました。
国兼は感涙して覚めた後、道もなく生い繁つた雑木を掻き分け険しい峻領をよじ登り里人の言いうる社殿の跡とおぼしき傍に仮小屋を作り、修行を始めました。
修行をつみ徳も高くなり、弟子・信徒も増してきた

承久(じょうきゅう)の乱(西暦1221):鎌倉時代・後鳥羽上皇方が敗れる。(後鳥羽上皇没1192年)
この辺が、御嶽山の開山と考えられます。伊勢の「須崎」も同伴してきたとすれば楽しいですね
御嶽山の須崎が関東一円に拡大していったと考えています
でも、伊勢の須崎が、増加していないのが気になります


あとがき

98/5/23:調査状況
調査日調査県世帯数須崎数須崎%全国推定調査%
全国44107856調査中
980412東京、徳島52734457480.0141846256
980419+北海道、青森79431768800.0110794887
980426+神奈川、沖縄114414279890.008644381325.94
980501+愛知、大阪、奈良、鳥取1774653514050.007919349240.23
980502+秋田、岩手、福岡2035798915490.007609335646.15
980509+山形、香川、宮城-----
980509+福島、埼玉、佐賀-----
980509+大分、宮崎、鹿児島-----
980519+京都、長崎、熊本2871166121730.00757333865.09
980522+茨城、群馬、愛媛-----
980523+高知、富山、新潟-----
980523+栃木、千葉、石川-----
980523+福井、兵庫、滋賀3777017425090.00664293085.63
980523+10県4410785628380.0064342838100.0
98/5/23に全国調査をした結果、2838軒でした
その後、定期的に調査をしていますが、順次減少しています。1年で1.8%減少しました

須崎の「さき」は、[大]と[立]{須崎(須ア)}の世帯を、須崎としました。

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